「弱者の存在に気づける人」をめざす (法的センスとは)
法律を学ぶ意義は「法的センス」を身につけることにある
法律を学ぶことの意義は、法律の知識そのものを得ることよりも 法律的な物の考え方、捉え方ができるようになること、言わば「法的センス」を身につけることにある、と常々考えています。
そこで、その法的センスの中身を考えてみたいと思います。 特にこのブログで言及しておきたいのは、法律を学ぶ人、そして法律の知識をベースに社会活動をする人が立脚すべき 二つの思想についてです。
その二つとは、信義誠実の原則と、弱者保護の思想 です。
- 信義誠実の原則(信義則)
- 弱者保護の思想
今回は、弱者保護について書きます。
社会と弱者 (社会は弱者を生む)
私たちの社会には常に「弱者」が存在します。 根源的に、社会そのものが弱者を作り出すのであり、社会が姿を変えると、その社会における弱者も変わります。つまり、新しい社会の仕組みが形成されれば、そこに必ず新たな弱者が生まれてしまうのです。
社会が新しい制度・仕組みを取り入れるのと同時に、その制度・仕組みが生み出すであろう新たな弱者を想定し、その弱者を守る手立てをあらかじめ講じることが出来れば理想的ですが、今日の社会変化のスピードはそうした余裕をゆるしません。
弱者は、自分から声を上げることができません。いや、そもそも、自分たちが弱者であるということに気付かない、認識していないことが多いのです。 そのため社会はなかなか弱者の存在に気付きません。そして、弱者の数が増えて社会全体に歪みが見え始めたとき、あるいは弱者と、弱者ではない人との間で由々しき対立が起こったりしたときになってようやく社会が弱者の存在を認識することとなります。しかし往々にしてそのときには既に深刻な権利侵害や人的被害が起きてしまっています。
それでは遅すぎます。もっと早く社会が、その社会を構成している私たちが、弱者の存在に気づかなければなりません。できることならば弱者の出現を予見し、誰かが不当な不利益を被る前に手を打てるような社会でありたいものです。それには私たち一人一人が弱者の存在、そして誰かが弱者に陥る可能性に気付くセンスを持つことが必要です。
法律を学ぶことで、弱者が見えてくる
日本における民法をはじめとする私法の領域では、立法も司法も、弱者の保護に頭を悩ませ、弱者の権利保護と社会の利益・発展のバランスという難題と闘い続けてきました。 ですから、その軌跡を学ぶことによって、
- どのような人々を弱者として認識すべきか?
- 社会が保護すべき弱者の利益とはどんなものか?
- 弱者の権利と社会全体の利益をどうやってバランスさせるのか?
といった課題に目を向け、考えを深めることができます。
さらに不合理なパワーバランス、権限の集中、不透明性といった、「弱者が生まれてしまう予兆」を敏感に察知できるようになります。 さまざまな不公平、不正、そして種々のハラスメントが起こる危険を感じ取り、その発生を抑制する力として関与できるようにもなります。
法的センスが、人としての感性を輝かせる
もっとも、その基礎力となるのは私たちが子供の頃から自然に身につけてきた人としての自然なフィーリングです。みんなが得られるものを誰か一人だけ得られないのはよくない、弱い者いじめをしてはいけない…といった、真っ当な人間的感覚の土壌があってこそ 法的センスは存立しえるのです。
逆に言えば、人としての感性が十分に育っていない人が法律を学ぶべきではありません。 弱者保護に興味のない人が高度な法律知識を持ってしまったら大変なことになります。 他の多くの技能・知識がそうであるように、法律の素養も、元来は弱い立場の人を助けることのできるものでありながら、持つ人の心がけひとつで凶器にもなりえます。
自分の職場や、地域コミュニティ、そして社会が健全なものであってほしい、そのために自分から何らかの働きかけをしたいと思ったとき、法的センスは必ず役に立ちます。 言いかえると、法的センスは、あなた自身の中に育まれてきた人間的感性を 社会制度の中に具現してゆくためのツールなのです。
ですから、私は少しでも多くの人、とりわけ若手の社会人の皆さんに、基礎的な法律の学習を通して法的センスを身につけていただきたいと思うし、私自身も 法的センスを身につけ、それをベースにして、種々の問題の解決に向かう一市民でありたいと思っています。
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